酒場のオヤジを越えるには

ワシの助けが必要か?

投稿50回記念 ハースを通して今思うこと 〜ゲームが楽しいってどういうこと?〜

どうも、イオンです。

完全に不定期で更新してきた当ブログもいつのまにか50回目の投稿になっていました。

 

どれくらいの人が読んでくれているのかな。

投稿するたびに瞬間閲覧数伸びてるから、ツイッター上でも目につかないことはないんだろうな。

 

一番反響があったのはテンポローグの記事だと勝手に思っています。

 

(´・ω・`)

「イオンさんのテンポローグの記事、2〜3回読み返しました!でもうまく使えません!」ってコメントをいただいたな。

ごめんね。強いプレイを知りたいなDacGyongみたいな有名プレイヤーの基本方針を身につけた方がもっと有意義だったと思う。僕のは使ったカード1枚1枚にコメントつけていっただけだったんだ。

 

でも反響があることは本当に嬉しいことです。

 

誕生日でも炉端一周年記念でもない50回目なのですが、自分の中で節目となったのでいくつか私事を書いて、思考を整理したいと思います。

 

今回は「ゲームが好き、楽しいってどういうことなのか?

我が半生で最も没頭したゲーム「ハースストーン 」に関して自分が思ったことを言語化していきます。

この記事では「ハースストーンのモチベーションの増減」「ゲームが上手くなる方法」にちょっとだけ触れます。

もし「思うようなプレイができない」「ハースストーンが楽しくない」という方が読んだとしたら何かヒントがあるかもしれません。そうなることを願います。

 

 

長い記事になります。太字でそれっぽい見出しを作るので、斜め読みして欲しい情報だけ取得していただいても構いません。

 

何故そんなにハマるのか?

僕のハースストーンプレイ時間は「仕事から帰ったら寝るまで」です。休みならほぼ一日中。疲れたら少し寝てまた再開。

 

このブログを始めた時がまだ「カラザン」の環境だったはず。2度目のランク5を経験して以来、毎月のように最高ランクを更新していました。

この頃の僕のモチベーションは「上達が目に見えること」でした。そしてハースストーンを始めて一年と半年で初めてレジェンドランクにヒットしたのです。

 

好きってどういうことか。

沢山答えがある問いですが、一つは好きに没頭できることだと思います。間違いなく僕はシンプルにして奥が深い、毎回新鮮さがあるハースストーンの魅力に取り憑かれました。

 

しかし。

そこまでハースストーンに時間を割かなくてもレジェンドに到達する人はいます。

レジェンドに執着のない人もいます。

 

なのに何故僕はそこまでの時間をハースストーンに割いたのでしょうか。

 

弟もゲームをやります。

メルクストーリアをやりながらユーチューブでアニメの音声を流しつつリーグオブレジェンドでカタリナをプレイする彼は僕とは真逆のタイプです。彼ほどでないにしてもツイッターで見かけるハースストーンのプレイヤー達は「モンハン出たからしばらくハースは休暇」「Fortnite面白い」「最近イカしかやってねえ」とプレイするゲームが多彩です。

 

僕は自分のことを

・弱いから時間がかかる

・それ以外の趣味がない

こういった理由でハースストーンにだけ熱を上げているのだろう、と簡単に考えていました。競技プレイヤーも多く、ハースストーンを一日中プレイしていることはそれほど珍しいことではない、と判断してしまったのです。

 

それなりに上達してほぼ毎月レジェンドに到達できるようになってからも、時間をありったけハースストーンに使うのは変わりませんでした。

僕のレジェンドに到達するまでにかかる時間はおよそ2週間にまで短縮され、一ヶ月でアジア、NA両サーバーでレジェンドになるところまで来ていました。

上達が止まったわけでもない(急成長ではなくなりましたが)

ほかにハースストーンができなくなるほどの趣味ができたわけでもない。

 

しかし突然僕はハースストーンに飽きを感じて一時ハースストーンを離れました。

 

僕はこれを環境のせいにしました。ワタリガラス年も後半戦。カードプールが拡がりに伴い全てのデッキの性能が尖ってきて、勝負が始まる前に大方の相性が分かってしまう。

同時期にSNS界隈でも有名プレイヤーがハースストーンから離れることを明言し、あたかも「みんなハースストーン辞めるんだ」というような気持ちになってしまったのかもしれません。

ともかく、僕は少しの間mtgアリーナへ避難することにしました。

 

ADHDと診断される

 

さて、ハースストーンの話を少し離れて私事です。

僕はいわゆる仕事ができないタイプなのですが縁あって営業マンをしています。はっきり言って「かなり鈍くさい奴」です。あまりにミスが多い僕は病院でとある知能検査を受けました。

結果は白に近いグレーでした。

医師は僕に「あなたの知能数値は、健常者と判断する基準をほんの少しだけ下回っています」と伝えました。「もし日常生活に困難を感じていて、薬で治療する可能性があって、あなたがそれを望むなら、病院側もしては処方箋を出すことに賛成します」とも。

僕は迷わず処方箋をお願いしました。

 

薬を飲んだその晩はもう忘れられません。

散らかっていた部屋を片付けたくなるし、

常に感じていた眠気が消えて視界がクリアになるし、

mtgアリーナではその日のうちに構築戦の7勝プライズを4回も獲得しました!

 

投薬によって健常者に限りなく近い状態になった直後は「健常者はズルい!」と思ったほどです。

彼らはこんなに思考が冴えた状態で、いつも軽い眠気と脳にモヤがかかったような僕がミスをした後の説教で「ちょっと考えればそれくらいわかるだろ?!」と言ってきたのです。

 

念のため書きますが僕は健常者という表現が苦手です。

「普通、こういう場面ではこうするよね」みたいな言い方は大抵「それはあなたが考える普通ですよね?」という抵抗を感じるからです。

誰が、何の定義で、どんな人を健常者と言うのか僕にはさっぱり分からないのです。

 

ここでの健常者とは、僕のことを健常者だと思って「それくらいのことはできるのが普通」みたいなことを言ってくる人のこと。

「相手の状態を理解せず、自分が思う普通とやらを振りかざし、僕がそのレベルに到達することを成長と呼んで絶対正義の尊いものとする人を皮肉ったもの」と思っていただくのがいいかと思います。(あくまで記事の中で、伝えやすくするために極端に表現しただけのことです)

 

僕の最近のスタンスは

今時、思考や身体能力にただの一つも苦手や癖のない人のほうが少ないと思うことです。誰しも向き不向きがあり、なるべく苦手な部分で苦労しないようにしているから一見世の中のほとんどが「健常者」とやらに見えているだけのこと。これが僕の普通です。

この考え方は今まで感じていた理不尽に対する意趣返しのつもりです。

 

 

思考がクリアになって

 

実はそれまで薄々感じてはいたのですが、僕がゲームに没頭する一番大きな理由は「現実逃避」でした。

 

耳から入る情報を処理すること

作業を並行して処理すること

が苦手な僕は

 

・聞いたことを忘れる

・そもそも聞こえない

・視野の外にあるものを忘れる、なくす(目からの情報が頼りきりだから)

 

こういったトラブルをよく起こしました。

ミスで叱られる、迷惑をかける

言われていることが理解できない

授業のような長い話についていけない

 

日常生活において僕はどんどん自信をなくし、2次災害的に弱いものいじめも経験しました。

 

中学の時はPSPでモンハンをプレイしていました。しかしある時ランク4から進まなくなる。そこには初心者の壁「リオレウスのハント」がその先へ進むための試練だったからです。

当時インターネットもなく友達も少ない僕はどうやったら勝てるのか分からず、勝てもしないリオレウスに向かってひたすら毒の剣を振り続けました。

それでも熱中できたのは何故でしょうか。ゲームが好きだったからでしょうか?  違います。

 

要するに、僕は何でもいいから現実を忘れて没頭したかったのです。そこに小学生の時から買い与えられていたゲームボーイがあった。ただの偶然だったのです。(これがもしビリヤードのキューやトランペットだったらどれほどお洒落だったか! と思わないでもない)

 

中学生の僕は何かに没頭していないと不安に押しつぶされる崖にいることに気づかなかったのです

 

授業ではいつも眠っていて

宿題もろくにせず、

テストでは欠点を取りまくっている中学生が

 

ゲームなんかにに没頭していたら、先生や親の立場からなんて言うでしょうか?

 

「好きなことばかりしていたのではいけないよ?」ですよね?

 

こんな馬鹿な話がありますか?

 

たしかに小学生の頃はゲーム好きでした。

ポケモンワリオもテリーも本当に楽しかったし、毎日何時間遊ぼうと授業にはついていけてました。ちょっとスポーツが苦手なだけで友達もいました。一緒に遊ぶこともしてました。

 

しかし中学生の僕はもう状況が全く違います。

友達もいないし

授業にはついていけないし

成績は落ち

家にいても怒られることが増え

 

ココット村だけが僕の唯一の居場所になっていたのです。

もうゲームが好きとか嫌いとか、そういう次元ではないのです。

 

しかし僕にはそれが分からなかったのです。

その時点で僕は僕に対する自己イメージを「ゲームの魅力に取り憑かれてなかなかやめられない意志の弱い人間」に固定してしまいました。

 

それまでは宿題もテストもちゃんとしていたのに!!

それさえも中学校にあがって授業の内容が複雑になったことに隠れてしまいました。

今までのやり方では通用しないからもっと勉強する時間を増やしなさい。そう言われただけでした。

 

結局、中学生〜社会人新人の僕は自分が今どういう状態なのか、客観的に考えることはできませんでした。自分を客観的に見ることができる立ち位置がない。結論を出せるほど自分の状態に関する情報がない。そんな状態を年長者から「好きなことだけやっている怠け者だ」「対策や改善をしようとしないクズだ」と言われたら、その通りだと思うしかなかったのです。

 

こういう見方をすると本当にちぐはぐだな、と思います。

僕がそれほど好きでもないことに熱中していること以上に、

ゲームを辞めさせようとする人々が躍起になればなるほど「僕はゲームが好きである」というセルフイメージを定着させてしまったのです。今振り返ると本当にミスマッチでした。

「なんでそんなにゲームに熱中してしまうんだ」

「なんで勉強してこないんだ」

こういった質問をされる時、僕は本当に苦しかったです。

僕は人に作られたイメージに従って、

本人の意思ではない答えを

さも僕の中にある答えとして、

僕自身が確信を持てないまま「僕が怠け者だからです」と答えるしかなかったのです。

(自分への戒めとして書きますが、事実僕は怠け者でした。これだけは今まで僕のためを思って叱ってくれた人の名誉のために明記しなければならないことです。ただこれらの苦言は僕のハンディを理解しないまま与えられたものだった、ということを言いたいのです)

 

実のところ鈍臭さ、生きづらさは就職してからも続いていて、ゲームはモンハンからハースストーンに移行していました。

もう集中力はとうに限界を超えて正常な判断ができないのに徹夜して朝までラダーをするのことがたまにあったのですが、ああ多分特に辛い時期だったんだろうなあ、と今ではちょっと他人事に感じます。

 

ここで先ほどの部分に戻るのですが

「好きってどういうこと?」

「ハースストーンに対する、イオンのモチベーションって何?」という問いに、今の答えはこうなりました。

 

嫌なことを考えたくなかった

 

仕事のミス、営業成績の不振、それに付随する人間関係の悪化。結局「今の生活についていけなくて人間関係が悪くなって居場所がない」というパターンを繰り返していたのでした。

 

新たな知見と再起動

 

というわけでハースを離れて2週間ほど。炉端に協力してくれてるニコさんにポーカーを教えてもらいました。

 

マナーやプレイを厳しく指導され、なんとか格好だけはつくまでに成長。

 

そこで教わったのは、一言で言うならリスクヘッジの反対側。

 

ポーカーって当然カードで負けたらチップ減るので勝てる手札になるまでは慎重に行くのが王道なんですよ。無理に勝負して大損するのは一見愚策です。

 

しかし、毎ターン参加費で持ち手が目減りするのもまたルール。どこかで勝負しなければ負けてしまいます。

 

そこで先生が教えてくれたのはこういうことでした。

「手札だけ見てもダメなんだ。どうせ負けるって場面でこそ勝てるチャンスを探さなきゃ。

考えるのは今の手札で相手に勝てる可能性だけじゃない。

もし万一勝てるとしたら、今の場に出ているチップは一世一代の大勝負にふさわしい額か。そういうことまで考えなきゃ。

52分の1枚がめくれずに負ける可能性よりも今取れるかもしれないリターンが大きいこともあるんだよ」

「ゼロになることは別に恥ずかしくないんだ。ただ最後まで残ったって、結局一番チップを持ってたやつの一人勝ちなんだから。

それよりも消極的なプレイばかりで勝負にいかないことこそ、チキンと呼ばれる行為なんだ」

 

あれ?

すごくハースストーンと似てるな?

と思いました。

 

賭けたチップは引っ込められないところはmtgの攻撃宣言と似てる。そこでカウンターで掛け金を上げてやる。すると相手はそれまでの掛け金を捨てて降りる。なんだかコンバットトリックと似通ってる。

 

どれだけプッシュしたら相手は降りるのか、とかはどれだけ場を作ればAOE出してくれるかな?とか

あるいは「僕は今、心霊絶叫を吐いてもらいたいのかな?それともないことはもうお祈りでプッシュし続けるしかないのかな?」とか。

 

ちょうど僕がポーカークラブに入ったことで参加者が50人になったらしく、せっかくなので50人記念大会にも参加してきました。一瞬だけでもトップに立てたりして、「あれ?参加2回目にしてこの中で一番うまいのでは?」なんておだてられたりもして。

 

その結果、

 

その知識をハースストーンに持って帰りたくなりました。

 

相手が今「追跡術」をプレイしたのにマナを余らせてターンを終わった。これにはどういうメッセージがあるのか、というような今までなかった新しい考え方が身につきました。

 

hollyさんにお誘いいただき、

おさかなpさんと3人でお酒飲んだ時に出た話です。

「いろんなゲームやるんだよ。でもやってるとあれ?やっぱりハースストーン面白かったよな、って帰ってきちゃう。もうふるさとなんだよね。ハースストーンを拠点にして、いろんなゲーム見て回ってるんだ」(拡大解釈)

 

コミュニティを立ち上げたり、

 

大会があったり、

 

もちろんゲームそのものの質も最高クラスのハースストーンをやっていて本当によかった。

 

これがなければ麻雀もしなかったし、

 

ポーカーもしなかったし、

 

思考がまとまらないことに異常を感じて病院に行くこともなかった。

 

思考がまとまりやすくなった今、最後にポーカークラブで口酸っぱく言われた最大の教えを解説して、この記事の締めくくりとしたいと思います。

 

「自分が考えて納得してプレイすることだね」

ある程度の理論で明らかにそれは悪いプレイだった、って分かる場合もあるけど、ポーカーくらい自由度が高いと何がいいプレイだったかはわからない。

一つの考え方として、自分は最高のプレイをした。そこにチップがついてこなかった、と思うこと。ゲームの過程を楽しむことだよ」。

 

相手はJワンペアをハンドに持っていました。

僕はKQノーヒット。

 

でも先生はよく勝負したと言ってくれました。

「いいんだよ。相手はほぼJのペアで確定だった。盤面にJが落ちてスリーカードになるか、ボードにAが出てめくり負けるんでなければ、KかQどちらかペアになれば勝てた。おそらくここしかイオン君が勝って再浮上するチャンスはなかっただろう。勝負するところを見極めて受けていったんだ。だからこれはナイスプレイ。後悔しなくていいんだよ」

 

 

ハースストーンも同じ。極論、カードのめくりあいなので、どうやっても勝てない時がきます。

しかし「悔いのないプレイ」をすることはできるのです。

「8ターン目だからとりあえずリッチキングを出して、結果勝った」では、酷い人は運だけのお祈りプレイだと批判します。

ではなくて

「相手は影刈アンドゥインを残している。しかしこのまま防御し続けても勝てないだろう。だからあえてドゥームガードで勝負する」ならば通って勝てた時にナイスプレイになるのです。

あるいは「まて、ならば密言死を喰らわないドレッドロードを出した方がいいのではないか?」という可能性に気付けるかもしれません。同じ勝つにしても、より勝てる可能性を追求した勝ち方を対戦の中で模索できるのです。

 

 

より良いプレイを探すことは重要ですが解が無限にあるので完璧主義に陥り疲弊してしまいます。

この記事でひとつ、提案するのは

そのプレイで悔いは残らないか?

という基準をもってプレイすることです。

 

 

常にそうしていてはやはり疲れるので、今ぼくは重要な局面でのみそのように考えています。

そして、ポーカーもハースストーンも「なんでもいいから没頭したい」ゲームではなく心の底から過程を楽しめるゲームに変わりました。

 

モチベーションを維持しなければ!と完璧主義、ハースストーン至上主義に陥って苦しんでいる仲間がいるなら、もしかすると僕の隠れたモンハン中毒と同じように、飽きや環境に隠れて何か重大なことを見落としているかもしれません。

 

そのときはゲームのプレイを超えて「なぜ自分はハースストーンをプレイするのか」「その状態でプレイして、悔いは残らないか」考えてみてください。

 

 

SNSなどでプロプレイヤーの話が入ってきやすかったり、レジェンドに到達するにはとにかく回数だ!というようなメッセージを頻繁に目にするようになりました。

それらを「悔いのない選択」として選んだならそれでいいのです。

しかし、「なんとなく」ランク5にならないと、ゴールデンエピックがもらえなくて損した気分になるというような曖昧な状態でプレイすることは、本当にゲームを楽しんでいるのでしょうか?

この記事を読んで「あれ?」と思うことがあるなら、盤面を超えて今ハースストーンをプレイするか、ほかのことをするか、検討したほうがいいかもしれません。

 

ゲームは心の状態をベストに保つための楽しい趣味でもあるのです。ゲームのために心の状態をベストにしなければならない、と立場が逆転したとき、プレイヤーはゲームに乗っ取られているかもしれません。